
AIに問いを投げると、かなり整った答えが返ってきます。
文章を書いてくれる。絵も描く。考えを整理して、判断の手前まで手伝ってくれる。
便利になったのは間違いありません。私自身、日々の仕事でAIを使っています。
だからこそ、ときどき考えることがあります。
このまま人は、どんどん「考えなくてよくなる」方向へ進んでいくのだろうか。
こういう話を社会学や哲学の視点から、今の時代の構造を説明することもできます。
なぜ今の時代がこうなったのか。
何が失われつつあるのか。
仲間内でも、そういう話をすることがあります。
理屈として理解することはできる。
ただ、そこでいつも少し引っかかります。
理由が分かったからといって、自分が明日から何をすればいいのかは、また別の問題だからです。
構造を理解することと、行動が変わることの間には、距離があります。
では、自分は何をするのか。
今のところ、私が自分に置いている答えは、とても小さいものです。
目の前の人を、すぐ助ける。
気になった人に、自分から声をかける。
小さな勇気を持って、行動に出る。
大きな話をしているようで、実際はこれだけです。
一通のDMから始まったこと
今、SISYPHUSというプロジェクトに関わっています。
AI時代に人間を考える、仲間との共同発信です。
このプロジェクトが始まったきっかけの一つは、ある人物へ送った一通のDMでした。
返事が来るかどうかも分からない段階で、仲間の一人が声をかけた。
そこから約2年の沈黙を経て、今につながっています。
最初から、「こういうプロジェクトを作ろう」という理屈があったわけではありません。
思っていた展開と、実際に起きたことがズレた。
そのとき、人がどう動くか。
SISYPHUSが始まったきっかけには、そういう瞬間があったと思っています。
先に、動いた。
先に、開いた。
その結果として、今こうして人間について考える場ができています。
あとから考えると、ここには自分が今考えていることが、そのまま表れている気がします。
何かが始まるとき、必ずしも最初に正しい答えがあるわけではない。
誰かが先に一歩を出したことで、あとから意味が生まれることがある。
「先に自分を開く」ということ
人として魅力がある人を見ていると、共通して感じることがあります。
知識や実績があるだけではない。
同じ目線で話してくれる。
そして、先に自分から開いてくれる。
そういう人と一緒にいると、こちらも自然と開きやすくなります。
私は、ここに人間にしかないものがあるように思っています。
AIは、こちらが問いを投げれば、かなり整った答えを返してくれます。
でも、「先に自分を開く」という行為は少し違う。
自分が傷つく可能性もある。
拒まれる可能性もある。
それでも、こちらから一歩を出す。
そこには、単なる情報交換とは違うものがあります。
ただ、私が「先に開く」と言うのは、無条件に自分を信じられるとか、人を何でも信じればいい、という話ではありません。
自分の危うさを知った上で、人を信じる
若い頃、悔しさから感情的な行動に出てしまったことがあります。
普段の自分は、そういうタイプではないと思っていました。
でも、屈辱や悔しさが重なると、自分の中の抑えが利かなくなる瞬間がある。
そのことを知りました。
ただ、自分の中にもそういう危うさがあると知ったことは、今の自分にとって大きな意味を持っています。
「感情のまま反応しない」という原則は、そういった経験たちからの学びです。
そして、あとになって分かったこともありました。
あの時期、陰で自分を守ってくれていた友人がいたことです。
自分一人で立っていたつもりでも、実際には人に支えられていた。
この二つは、私の中ではつながっています。
自分は、自分で思っているほど安全な人間ではない。
そして、自分一人の力だけで立っているわけでもない。
だから今は、先に開けるのは、自分に危うさがないからではないと思っています。
自分の危うさを知っている。
人が必ず応えてくれるとも思っていない。
それでも、人を信じる側から始めてみる。
私にとって「先に開く」とは、そういうことです。
整っていることだけでは、人間の価値にはならない
もう一つ、最近よく思うことがあります。
すごい人と比べすぎないことです。
指導の場でも、発信の場でも、自分より知識や経験がある人が周りにいると、何を言えばいいのか分からなくなることがあります。
もっと勉強してから話した方がいいのではないか。
もっときれいに整理してから出した方がいいのではないか。
そう考え始めると、何も言えなくなる。
これは、AIが当たり前になった今、以前より起こりやすくなっているのかもしれません。
自分が何時間もかけて考えていたことを、AIは数秒で整理する。
自分がうまく言葉にできないことも、それらしい文章にして返してくる。
そうなると、「自分が出す意味は何だろう」と考えてしまうことがあります。
でも、常識と敬意さえ忘れなければ、自分が思ったことを言っていい。
完璧に整えてから話すより、まだ整理し切れていない自分の感覚を出した方が、本質に近いところへ触れることもあります。
AIが、短時間でかなり整った文章を作れる時代だからこそ、これは以前より大事になっている気がします。
整っていることだけでは、人間の価値にはならない。
自分が実際に見たこと。
感じたこと。
迷ったこと。
そこで何を選んだのか。
AIは、それらを「自分の経験」として持っているわけではありません。
だから、人間が自分の感覚を外へ出す意味までなくなるわけではないと思っています。
AI時代に残したいもの
大きな社会を、一人の行動で一気に変えることはできません。
AIがこれから人間や社会をどう変えるのかも、私には分かりません。
でも、目の前の人に先に開くことはできる。
気になった人に声をかけることもできる。
小さな勇気で、一歩を出すこともできる。
SISYPHUSも、一通のDMから始まりました。
返事が来る保証があったわけではありません。
その先に今の形が見えていたわけでもない。
先に、一人が動いた。
その一歩から、今につながっています。
そして、それを自分がやっている姿を、子どもや周りの人が見ています。
そういうものが少しずつ広がっていけば、人と人が心を通わせる感覚を、次の世代にも残していけるのではないかと思っています。
AI時代に人間らしく生きるとは、大きな答えを持つことではないのかもしれません。
完璧な言葉を持つことでもない。
すべてを理解してから動くことでもない。
目の前にある小さな一歩を、自分から出せるかどうか。
その一歩を、自分は今日出せているかにかかっていると信じています。

『SISYPHUSで、AI時代の人間を考える』
この記事で触れたSISYPHUSでは、AIが当たり前になった時代に、人間とは何か、人と人のつながりをどう残していくのかを仲間と考え、発信しています。
今回の文章に通じるテーマをさらに読みたい方は、SISYPHUSの発信もご覧ください。
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